修学旅行2日目②

修学旅行2日目②

比謝川において、私は個人的に次の①②の二つのことを学びました。

① 沖縄本島中部を流れる比謝川は、沖縄市・嘉手納町・読谷村などをぬって東シナ海に注ぐ、流域面積が本島で最も大きな河川。

1853年、江戸幕府に開国を求めて浦賀に来航した米国海軍のペリー提督は、その前後に何度か琉球を訪れ、本島を調査し、この川に立ち寄り、その際、一行は清水で喉を潤したと言われている。『ペリー訪問記』には、この地はフィージャと呼ばれていると書かれている。

②1945年4月1日に米軍が沖縄本島で最初に上陸した比謝川を含む読谷村には、沖縄の住民の生死が分かれた象徴的なガマが二つある。約千人が助かったシムクガマと、83人が集団自決したチビチリガマ。この二つのガマは、たった800mしか離れていない。

では、なぜこの二つのガマで生死の明暗が別れてしまったのか。何が異なっていたのか。

答えはリーダーだと言われている。

シムクガマには、ハワイ帰りの比嘉平三氏とその叔父の比嘉平治氏がいた。二人は、他の人々が、迫り来る米兵に対して竹やりで応戦しようと主張したが、「米兵は住民を殺さない」と二人で住民らを説得し、その結果、全員投降し生き延びたのである。平治氏がいさめ、平三氏がガマから出ていき、ガマには日本兵がいないことを米兵に英語で説明したと言われている。

一方、チビチリガマからは、上陸した米兵に竹やりで突撃し、2人が重傷を負った。「自決」を口にした住民が着物や布団に火を放った。周りが消し止め、事なきを得たが、再び米兵が姿を見せると極限状態のガマでは毒薬で命を絶ったり、自ら親や子を手にかけたり、約140人のうち83人が集団自決で亡くなったのである。

つまり、シムクガマでは生きようという強い意志をもったリーダーがいたのに対して、チビチリガマには軍部の影響を受けた元兵士や元従軍看護婦がおり、その判断を信じた住民たちが自決を選んだのであった。

私はこの話を知るにつけ、リーダーの正しい判断がいかに大切かということはもちろんだが、その正しい判断をさせるに至った教育の大切さを強く感じたのである。

この二つのことがらについて、身近な滞在ではあったが知ることができ、晴天の下で行うアクティビティの清々しさとは異なる、新たな学びを得た清々しさでいっぱいになった。

10月27日